こんにちは、山田です。
少しご無沙汰してしまいました。
今日の本題とはまったく関係ありませんが、只今のBGMは「Super Best of Yumi Arai Disc 1」でございます。(「ひこうき雲」「雨の街を」あたり流れるともうほろほろしてしまいますね)
なんと気づけば本番まで二週間きったわけです、驚き。稽古も少しずつ少しずつ進んでいます。
さて、今日は作者及び作品について少しお話しようと思います。
このたび旗揚げ公演にあたって、M・デュラスという仏の劇作家・小説家・映画監督・・・の短編小説「大西洋のおとこ」をチョイスしたのですが、理由は単純です。
拘ったつもりはないのですが、集ったメンバーが女性陣だったので、作家も女性にしようということでそうなりました。女性作家といえば昨今では他にも大勢いらっしゃいますが、カフェ公演ということをさしひいても他にしっくりくるひとがおらず、なぜか案外すんなり決まった次第です。
が、実はきちんと決まるまでデュラスの作品や生い立ちについて殆ど知らず、学生時代に映画「二十四時間の情事」(なぜこの邦題なのかは未だに謎です)をぼんやりと眺めたことくらいしかありませんでした。高尚で手の届かない、ちょっと近寄りがたい存在。それがわたしにとってのデュラスの印象でしたが、今回作品上演決定にあたって他の小説や戯曲を読んでみると、創作にあたって実に野望多き(?)女性なのだということがわかりました。
デュラスといえば自身の幼少時代の体験を基に赤裸々に綴った「愛人」が世界的ベストセラーになった印象が強烈にありますが、たとえば「シャガ語」という戯曲を例に挙げてみるとそんなお耽美なイメージが打ち崩れるというものでしょう。これはAとBという二人の女性と、二年前に「ここ」から二メートル前でガス欠したという通りすがりのHという男の会話劇です。以下はその一部抜粋となります。
*****
A このご婦人は今朝からシャガ語を話しているんです。だから、このご婦人がどういっているのか
はもうわかりませんわ。
H ほう……
(中略)
B (弱く手を叩いて、おもしろがって)ウワイヨ、ウワイヨ。
H (それをまねて)ウワイヨウワイヨ…(急にあっけにとられて)あれっ、こいつはギリシャ語だ、ウワ
イヨウワイヨってのは…
A、目を丸くする。
A (Bに)なんですって?あんまり馬鹿にしないで頂戴。あなたの話してるのは、ギリシャ語ですっ
て?
B (抗議して)ハムバ、ハムバ。
A (Hに)どう、これもギリシャ語?
H いいえ、しかし、ウワイヨウワイヨはギリシャ語ですよ。(間)ほら、いいですか、ウワイヨウワイヨ…
A (納得して)ほんとうだわ…
B ハムバ。
A でも、ハムバハムバ…っていうのは。
*****
A はっきりしませんわね、お話が。
H そうですかな?
B たくさんだわ、もう、インテリって(これは非常に変形したシャガ語である)
*****
いかがでしょう。なんたる自由さ(笑)因みに”ウワイヨ”で検索キイを叩いてみたら、”アワイヨ”というアンデスの民族楽器がヒットしました…(笑)小説や映画のイメージとはまた違ったデュラスの一面がここにはあります。
彼女の作品を目の前にしていると、”わかる”ことへの懐疑の姿勢を感じます。わかるわかる/わかってわかって病への痛烈な皮肉。けれどもそれは決してどうせわかりあうことなんてできないんだからという短絡的な開き直りの態度ではなく、”わからないことへの愛の形”として作品にこめられ、提出されたように思えてなりません。ナルシシズムでひたひたになった私小説と一線を画しているのは、その愛情表現によってなのだと思います。
今回ご縁があって上演決定した小さな小説「大西洋のおとこ」は、デュラス自身が海辺のホテルのそばで38歳年下の恋人ヤンをモデルに撮影しているらしい(実際の地の文は、”わたし”と”あなた”としか表記されません)、という設定から時間も空間もがんがん飛び越えるというまるで空中遊泳しているかのような読中感のある作品です。
作品としてたちあげる作業につれ、これはわたしがあなたについての思いのたけを綴っただけでなく、デュラスの映画論であり、芸術観なのだと確信しています。
案の条長くなりましたが(更新するたびに終らないんじゃないかという不安を抱えます…笑)、
ぜひお立会いいただければ幸いです。
では、これにて・・・
山田
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