こんにちは、山田です。
のんびり更新ですが、ご容赦ください・・・
さて、今日はデュラスと海というテーマでお話したいと思います。
彼女の人生を「海」というテーマで区切ると、1914‐31/1932‐96と分けることができます。
前半は幼少期を過ごした仏領インドシナ時代のベトナムの太平洋、後半は大学合格後帰国しそれからずっと暮らした仏の大西洋。
デュラス作品において、「海」はタームとしては頻出単語ですが、タイトルだけみると意外に少なく、ある程度の長さをもった小説としては、「太平洋の防波堤」(1950)、「大西洋のおとこ」(1982)のみです。
前者は”母”が美しい仏語の学校開校のために購入した土地が実は「塩漬けの土地」であり、事態改善のために大勢の農夫を使って防波堤を築いたにも関わらず、夏に襲った高潮のせいでもろとも崩れさってしまう・・・という荒々しい海のイメージ。
後者は、”わたし”がかつての恋人であった”あなた”を撮影した場所として、かもめが空を飛んだり犬が熱を帯びた砂浜をすたすた通り抜けていくような、穏やかな海のイメージ。
双方の作品での「海」の描かれ方は真逆といえるでしょう。また、彼女はそのどちらのイメージも作品として反映させられるくらい、人生を見渡す範囲にいつもそれはあったのです。
「わたしには得意なことがひとつある、それは海を眺めること。」(『愛と死、そして生活』16頁)
デュラスの人生は傍からみるとそれだけでドラマになるようなさまざまな要素で成り立っています。彼女自身の年表の事柄からにじみでたものを筆が拾って紙にしたためているのではないかと思うくらい、モチーフとして描かれています。
ただ、それは完全な私小説とは違って、作品によって設定が少しづつ”ずれて”発表されていることを忘れてはならないでしょう。例えば彼女には二人の兄と母で幼少期の大半を過ごしたわけですが、「太平洋の防波堤」では兄は一人という設定であっても、同じベトナムを舞台にした「愛人」(1984)では、二人になっています。
こうした違いに精神分析的な目線をやるのは別の畑のひとにおまかせするとして、わたしはここには彼女の作家としての個性を感じます。(そもそも創作、特に書くという行為はそのひととかけ離れた設定においてにせよ近い設定においてにせよ、そのひとの半生の何がしかが反映されないわけがなく、またそのひと自身の何もかもが投影されることはありえません。)けれどそれは作為的なものなのではなく、前述のとおりまるでにじみでてしまった結果としてそこここに現れてしまっているような―
「わたしが書いていることは知っている。でも誰が書いているかよくわからない。わたしは完全に不幸だった、なぜならそれを書いたどんな女とも一致できなかったから。わたしは海を見ていた女、こどもを見ていた女、海に沿って粘土の丘を走っていた女のために混乱していた。わたしはそんな訳で、人生について生きられた人生が[書かれた]それと一致できないことに頭にきていた。わたしはわたしに嫉妬していたのよ。」(『モントリオールでのM・デュラス』 1981年 50頁)
引き裂かれている。
それがわたしの彼女に対する形容詞です。
祖国と、幼い頃他界した父と、上の兄ばかり愛する母と、そして戦死した愛する下の兄と、収容された最初の夫と、生まれてすぐ逝った最初のこどもと・・・何より作り手としての自分自身と。
だから彼女の書く物語にはいつでもそこに「不在」が影を潜めています。
そして背景として設置される、海。
それは名付けられ手さえも加えられあるがままの姿を改変されてしまう土地とは異なり、便宜上命名されはしても明確なくびきをひくことはできません。どんなに表面で線を引いたとしても、海の底ではすべてがつながっているからです。このとらえどころのなさ、終りのないくりかえしを前に、デュラスが何を思ったのかはわかりません。昔の男かもしれないし、今日の夕飯のことかもしれません。
彼女の作品は、彼女のみていた海のようにとらえどころがなく、ひとつの解釈や意味を求めてジャンルという釣り針をおろそうとすると、さーっと引き潮になったかと思えばあっという間に満潮になって窒息してしまいます。
だから時に小さく時に大きく荒くれつつも、寄せては返すという律儀な海としての約束を守りつつあるそれに、空っぽの状態で身を任せないと遠くへいけません。
わたしたちは、その航海のために船を作っています。(会場はロケットですが・・・笑)
意味の向こう側へ、設定の向こう側へ、イメージの向こう側へ、どこまでも越えていきたいと思います。
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